北アルプスに魅せられて                                          番外編

楼蘭王国探検記

砂漠

プロローグ
1995年春。
会社に入って20年が経過していた。 その年、勤続20年表彰として、金一封と、7日間の特別休暇(フレッシュアップ休暇と呼ばれている。)が出た。 休暇は1年間有効、せっかくなのでめったにいけないところへ行きたいと考えていた。
ピラミッド、ナスカの地上絵…、
どれもツアーに参加するのはいやだし、一人で計画するのは大変そうだった。
7月のある日の新聞社会面に「あなたもシルクロードに行きませんか?」という記事を見つけた。
毎年、シルクロードをラクダで旅をしている「大地の会」が、仕事をしている人でも行けるようにと約3週間の日程で参加を呼びかけていた。 「大地の会」主催者のO氏は奈良県の方だが、東京で説明会を開催するとのこと。 新聞に載るのだから怪しい団体ではないだろうと思い、説明会に参加することにした。
説明会参加者は約50名。 その年、外国人未開放地区であるロプ・ノール地域が、人数を限って開放され、楼蘭古城に行くという計画だった。 ロプ・ノールという名前は「さまよえる湖」として以前から知っていたし、楼蘭王国も何年か前にNHKで見た記憶があった。 ある程度まで車で行き、歩くのは4日間ほどなので心配ありませんとのこと。 前年シルクロードを旅した人の現地の説明等があり、質疑応答があった。 O氏からは「砂漠に行って何があるのかと聞かれれば、何もありません、と答えます。」との回答。 観光旅行ではなく、むしろ冒険旅行という感じだった。
日程表
10/07 関空→北京 飛行機 ホテル泊
10/08 北京→コルラ→チケンリク 飛行機、車 テント泊
3 10/09 チケンリク→米蘭 招待所泊
10/10 米蘭→BC.No.1 テント泊
10/11 移動 テント泊
10/12 移動 BC.No.2 テント泊
10/13 BC.No.2→楼蘭へ 徒歩 テント泊
10/14 →楼蘭城外へ 徒歩 テント泊
10/15 楼蘭 徒歩 テント泊
10 10/16 楼蘭→BC.No.2 徒歩 テント泊
11 10/17 BC.No.2→BC.No.1 テント泊
12 10/18 BC.No.1→米蘭 テント泊
13 10/19 移動 テント泊
14 10/20 米蘭 招待所泊
15 10/21 予備日 予備日 招待所泊
16 10/22 米蘭→コルラ ホテル泊
17 10/23 コルラ→ウルムチ ホテル泊
18 10/24 ウルムチ観光(予備日) ホテル泊
19 10/25 ウルムチ→北京 飛行機 ホテル泊
20 10/26 北京→日本 飛行機 解散

行ってみたい気持ちは最初から決まっていた。 問題は参加費用と約3週間の休み…参加費は決して安くない額だった。(後で聞いたところ約半分は中国政府に納める費用とのことだった。) 費用は、その旅行が自分にとってそれだけの価値があるか判断することだったが、休みはサラリーマンにとっては自分ひとりの問題ではない。 幸い時期が10月のはじめからという、比較的業務の調整が可能な時期であったのと、理解ある上司のおかげで参加に向けてスタートがきられた。
9月に入り、最終参加者は7名と決まった。 関東から4名、関西から2名、北京から1名。 年齢は40代3名、60代4名。 奈良からO氏が上京し、関東からの参加者のうち都合のつく3名と東京で打ち合わせ。 旅行の取りまとめはO氏が自ら、中国の旅行代理店と直接行っており、通常は入る日本の旅行代理店は入っていない。 そのため、資料はすべて手作りだが、毎年行っているというとおり、あまり心配はなかった。
9月下旬、関東からの参加者1名が欠席となり、関東からの3名は成田から北京へ、関西からは関空から北京へ行き、北京国際空港のゲートで集合することになった。 関東からの参加者は私のほかに男女各1名、年齢はいずれも40代。 男性は会社経営をしており、今年から毎年世界を冒険するとのこと。 女性は学生時代から世界の砂漠に行っているが、タクラマカン砂漠だけがまだなので参加したとのことだった。
楼蘭古城は中央アジアの奥深く、タクラマカン砂漠の深い砂に覆われた古代都市の廃墟である。
いまから2千数百年前、この町は東西交易の宿場町として無類の繁栄ぶりを見せた。
楼蘭の東方には広々としたロプ・ノールが紺碧の水をたたえ、その北岸には白龍堆(はくりゅうたい)と
よばれる難路が、えんえんと敦煌にむかって伸びており、楼蘭の西側には広漠たるタクラマカン砂漠が、
雲1つない澄みきった青空の下に、見はるかす限り広がっていた。

当時のシルクロードは、中国の西北辺境の町敦煌から、砂深いロプ砂漠を17日ほど西進し、ロプ・ノール
のほとりにある楼蘭王国の都クロライナに達した。
楼蘭で道は2つに分れ、1つは西北に進み、天山南路を通り、喀什(カシュガル)に達した。
もう1つは楼蘭から西南に進み、西域南道を通り、ヤルカンドに至る道である。
要するに2000年前の楼蘭は、中国から西域に行く時にも、西域から中国にむかう場合にも、必ず
通らなければならないオアシスで、いわばシルクロードの喉であった。

その楼蘭も、5世紀中頃に王統が断絶し、6世紀には地上から消滅してしまった。

そして、1900年3月27日、スウェーデンの探検家スウェン・ヘディンによって偶然発見されたのである。

                                   (朝日新聞社発行「楼蘭王国と悠久の美女」より)

さあ、いよいよ出発だ。

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