第二章
ウルムチから米蘭(ミーラン)へ
1995年10月9日(月) 3日目 |
午前7時30分起床。 外に出てみるが、まだ暗く、西の空には満月が出ている。 8時のモーニングコールになってやっと辺りがうっすらと明るくなってきた。 8時30分 バイキングの朝食を済ませ、出発を待つ。 今では珍しくないが、今回のためにソニーの最新型GPSをO氏が持参した。 アメリカ製のもう1台のGPSを中国側が用意している。 その操作説明のため、O氏とT氏が中国側と打ち合わせのため、 私とY女史、通訳のチンさんとで、ニンさんの運転するランドクルーザーで先に出発する。 トルファンの西にあるトクスンという街で待ち合わせである。 |
午前9時20分。 まずはトクスンに向け出発する。 街を出るとすぐに砂漠地帯である。 1時間ほど走ると、大きなプロペラが何基も見えてきた。 風力発電所だ。 車を降りて見ると、見渡す限りプロペラが立っている。 後で調べてみると、180基もあるらしい。 しかし、この日は風がなく、プロペラは回っていなかった。 |
道路と平行して、鉄道が走っている。 ちょうどウルムチへ向かう汽車とすれ違う。 客車13両と貨物車6両が連結されている。 次に見えてきたのは、大きな湖である。 この湖は淡水湖でウルムチの水源らしい。 |
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10分ほど走ると、次の湖が見えてきた。 今度の湖は、塩湖だということである。 よく見ると水際が白くなっている。 塩の結晶なのだろう。 この湖のほとりには、製塩工場が立っているとのことだが、 見る限りでは、ちょっと見つけられなかった。 ここでも、汽車にすれ違う。 今度は貨物車だけ、30両くらいがウルムチに向かう。 子供の頃は日本でも貨車の数を数えた記憶があるが、 最近は、貨車そのものをあまり見なくなってしまった。 |
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塩湖を過ぎてすぐに、小さな町を通り過ぎる。 ダイバンジョウとのことだが、発音は定かに聞きとれない。 町を過ぎると、道は山岳地帯に入っていった。 いつのまにか、道は川に沿って走る。 |
やがて、川からも離れ、完全な山道である。
さらに進むうちに、山肌が砂で崩れるようになってきた。
こうやって砂漠化していくのだろうか。
写真には写らなかったが、ウィグルの遊牧民がラクダに乗って、ヒツジを連れているのが見える。
ウルムチから160km。 3時間ほどでトクスンの街についた。 トクスン。 ウィグル語で90という意味で、 トルファンから90家族が移り住んだことに由来しているという。 街には、ロバや馬の引く沢山の馬車や、 トラクター、トラックなどが見える。 もちろん、自転車に乗る人も・・・ |
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ここで、ウルムチを遅れて出発したチェロキーを待ち、昼食である。 昼はイスラムラーメンといわれていた。 清真食堂とかかれた店である。 清真とは豚肉を使わないイスラム料理だそうだ。 どんなものか想像がつかなかったが、麺は日本の手打ちうどんと同じようだ。 打った麺を器用に空中で延ばしながら、鍋で茹でる。 それに、肉野菜炒めをかけて食べるのだが、これが上手い。 テーブルには生のニンニクが置いてあり、それを皆、食べている。 ボリューム満点で、さすがに食べ切れなかった。 |
13時45分、出発である。 今日の目的地コルラまであと320km。 トクスンを出てすぐに標高1500メートル位の山を越える。 休憩で、車を降りると、さすがに風が冷たい。 前方からバスが来た。 カラコシュンからウルムチに向かうノンストップバスだとのこと。 1500kmの距離を1日半で走っているらしい。 ちなみに普通のバスは3日をかけて走っている。 やがて、山岳地帯を抜け、まわりの景色はまた砂漠になった。 クミシュという町を過ぎた辺りで、道端で何か売っている。 見るとスイカである。 1個5元(約60円)。 とても甘くて美味しい。 |
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急にもの凄い悪路になった。 まわりの砂漠は、少し草もはえているが、なにやら白っぽい。 表面の白い粉のようなものは、塩である。 |
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幸い悪路は15分ほどで終わった。 17時30分。 ガソリンスタンドで給油する。 柴油と汽油の表示がある。 柴油が軽油。 汽油がガソリンだそうで、 汽油にはオクタン価の違う♯70と♯90があった。 ガソリンスタンドの前には、枯れ草をいっぱい積んだ車が これから引っ張られるのを待っている。 |
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ウルムチを出てから9時間。 480kmを走り、18時45分、コルラの街に着いた。 まだ日が高く、気温26℃、湿度30%、標高885mの街である。 そのままホテルに直行する。 今日のホテルの名前は 19時30分ホテルの食堂で夕食の後、売店で絵葉書を買い、日本に送る。 絵葉書は5〜6枚入って、3元(約36円)だった。 その後、散歩に出るが、街全体が暗い。 電力事情が悪いせいかもしれない。 ホテルもお湯の出が悪いが、シャワーを使えるのもここが最後で、 しばらくは水は貴重品となる。 明日は午前8時にモーニングコール。 9時朝食。 10時出発の予定である。 |
1995年10月10日(火) 4日目 |
モーニングコールを待たずに、午前7時に目覚める。 うとうとしながら、7時30分に起床。 朝食までホテルの玄関先を散策する。 朝食は、おかゆ、揚げパン、万頭、トマト、きゅうり、肉。 トマトはここの名産だそうである。 おかゆは日本と違い、味付けがしていない。 何度も来ているO氏はさすがに慣れたもので、日本から食卓塩を持ってきている。 塩をかけて美味しいおかゆに変身した。 O氏が持ってきたソニーのGPSは新製品で始めて使うものだそうで、 昨日、中国側と打ち合わせをしたが、どうも使いこなせないらしい。 この手の機械は好きなので、早速預かり、使い方を勉強することになった。 午前10時フロント前に集合し、出発を待つ。 ここで中国の文物局の役人と合流するそうだ。 未開放地区に隣接する地域を旅する場合は必ず役人が同行するらしい。 その到着が遅れ、無駄な時間が過ぎていく。 O氏曰く、 「中国を旅する場合、このようなことは良くあること。 普通のツアーのつもりで来た日本人がもめることもある。 たとえば、車が故障した場合、代わりの車を手配しろ、と考えるのが日本人で、 中国の人は、修理が終わるまで待つしかないと考える。」 ということだ。 午前11時。 文物局の役人、ホーさんが到着した。 想像とは違いかなり若い人である。 早速2台のジープに分乗し、500km先の米蘭(ミーラン)を目指す。 |
1時間ほど走り、イリの町で休憩。 ここは、1900年にスウェーデンの探検家、スウェン・ヘディンが 楼蘭を発見した時、食糧を買って出発したところである。 ここも、コルラ同様、イスラムの匂いの漂う西域の町である。 道路には馬に引かれた馬車が見える。 車を停めた店の前で、シシカバブと呼ばれる ヒツジ肉のバーベキューを売っている。 食べてみるとカレー風味でなかなか美味しい。 |
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イリの町を出ると、いよいよタクラマカン砂漠特有のパウダーサウンドが舞うようになってきた。 この砂は非常に細かく、使い捨てカメラの封を切らなくてもその中まで入ってくるそうである。 前を走るチェロキーの砂埃で、先が見えない。 車の窓は締め切ってあるが、荷物の上はうっすらと白く砂が覆っている。 道は砂利道で、バウンドがひどく、そのたびに荷物の上の砂が舞う。 出発して1時間半ほどで、チェロキーの後輪がパンクした。 スペア−タイヤに交換し、先を進む。 14時10分、第31団場という開拓団の村に到着し、昼食とパンクの修理である。 昼食の時に中国のビールを飲む。 生水はもちろん飲むことが出来ず、そうなると水分は、ミネラルウォーター、ビール、清涼飲料水となる。 清涼飲料水よりもビールのほうが安いので自然とビールが多くなる。 ビールといっても、青島ビールに代表されるようにアルコール度は低いようだ。 ここで飲めないビールを飲んだのが、あとで自分を苦しめることになる。 さて、パンクの修理であるが、ホィールからゴムの部分を外すと、なかからゴムのチューブが出てくる。 そのチューブを、自転車のパンクの時と同じく、水につけ、穴のあいている部分を探し、補修する。 スペアタイヤは1本しかないので、すぐに直しておかなければならない。 運転手は、修理工も兼ねている。 15時30分、パンクの修理を終わり、出発する。 途中、第33団場の村を通過し、 17時、小さな川べりで小休止。 川の中を覗くと、5cmほどの小さな魚が泳いでいるのが見える。 |
その後、30分ほどでチケンリクという村に到着した。 砂漠の中のオアシスの村である。 大きな木の下で食べた洋ナシとスイカの甘さは絶品である。 これまでは見かけなかったが、猫が飼われていた。 |
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出発すると、しばらくしてなんとも頭が痛くなってきた。 昼に飲んだビールがいけなかったらしい。 良くあることなので心配はないが、どうにも我慢できないくらいこめかみが痛む。 車の中で寝ているが、道が悪く、振動が頭に響く。 そのうち、またチェロキーがパンクしたらしい。 第35団場という村でパンクの修理をする。 まわりの景色も、パンク修理の光景もゆっくり見たかったが、 修理の間、おとなしく車の中で寝ている。 18時30分、修理を終わり出発。 しばらくすると、今度は乗っているランドクルーザーが砂山に乗り上げ大ジャンプ。 中の荷物はめちゃくちゃ、埃が立ち込めるが、幸い人的被害はなかった。 荷崩れを直し、再び出発するが、頭痛は依然治らない。 回りは暗くなってきた。 とにかく目をつぶってじっとしている。 そのうち、日干し煉瓦で舗装された道になった。 振動が少なくなり楽になる。 道路脇に1000kmの標識が出てきた。 ウルムチから1000kmの標識だそうで、降りて見ると満天の明るく大きな星空である。 さらに、すれ違う車も全くない道を進み、チャリクリクという村に着いたのが22時30分。 コルラを出てから、500kmを11時間30分で走破したことになる。 米蘭(ミーラン)まではあと75kmであるが、今日はここで泊まることになった。 宿泊は、招待所と呼ばれる村の宿である。 頭痛はだいぶ良くなったが、食欲がなく、夕食はほとんど食べられなかった。 その後、GPSの使い方を復習する。 いろいろな機能があるようだが、目標の緯度と経度を入力しておくと、 現在位置、目標までの方位と距離が表示される。 この使い方だけをしっかりとマスターする。 明日は、8時朝食、9時出発。 米蘭(ミーラン)でキャラバンを編成し、いよいよ楼蘭を目指す。 |
2日間で1000kmの移動。 中国は広い。